2011-02-16 第177回国会 参議院 共生社会・地域活性化に関する調査会 第3号
それが、私が大学を出て二十年前に実は感じたことは、もう日本のマーケットは供給過剰だと、需要と供給のバランスが要は飽和点に達したと。だから、この二十年間ずっとデフレ起きていたわけですね。 それはどういうことかといいますと、今、食料自給率なんかでいうと全然訳の分からない話になっちゃうんですけれども、マーケット論でいうと供給過剰なんです。
それが、私が大学を出て二十年前に実は感じたことは、もう日本のマーケットは供給過剰だと、需要と供給のバランスが要は飽和点に達したと。だから、この二十年間ずっとデフレ起きていたわけですね。 それはどういうことかといいますと、今、食料自給率なんかでいうと全然訳の分からない話になっちゃうんですけれども、マーケット論でいうと供給過剰なんです。
ただ、沖縄に対しては、そういう意味で申し上げても、それをはるかに超えた飽和点が沖縄の皆さんの中にあるということも承知をいたしておる次第であります。
つまり、飽和点、これは平均値でしか見ません。でも、それがいわゆる中位点で、つまり真ん中、五十番目の人の水準というものが平均値と同様に上がるのか、平均値は上がるけれども、その人の収入は下がっていったとしたらどうなのかと。
○参考人(白石小百合君) 飽和点というのは経済的な要因と幸福度との関係ということなんですが、ある一定程度まで所得が上がったとしても、現在の日本のように経済的な格差が広がるという状況になりますと、これは幸福度を下げる要因ではないかというふうに考えております。
時間がありませんので、簡単に一言だけ参考人の皆様に付け加えて質問させていただきたいんですが、多分皆様のその説明、お話の中で共通しているのは、経済という側面はある一定以上になると白石参考人がおっしゃったように飽和点になるという、ですけれども必要だという側面があると思うんですが、ある一定以上の飽和点になったら、じゃ経済的な側面はもう余り必要ないのかどうか。
これは、元の住宅価格が上がっているという大前提、日本の場合には不動産価格というのは戦後五十年ぐらいずっと上がり続けてきて、四十年ですか、バブル崩壊でこうなったわけですが、アメリカは七十年ぐらい大恐慌以来ずっと上がってきて、まさに神話になっていたわけでありますが、新規も中古の住宅市場ももう飽和点を超して、あるとき、必ずこういうものは歴史は繰り返すわけでございますけれども、これが頭打ちになり、やがてこれが
今、円が下がってきた、こういうことも踏まえて、総裁としては、この日銀特融の限界というか、どの辺が大体飽和点と考えておられるのか、その飽和点があるとすれば、それを超える部分についてはどういうふうな対策をとっていくべきかということ、その辺をまず聞かせていただきたいと思います。
これはお預かりになっているということでございますけれども、ちょうど私が先回質問させていただいたときに、連名ではありますけれども、三木さんの小論文、コメントが毎日新聞に載って、それを紹介させていただいて、その中で非常に政府に対して不満、不安感が募ったというような、そういう文章が掲載されていて、そして恐らくその思いが飽和点に達して今回辞表提出ということになったと思うんですけれども、外務省としては今回の三木
今、御本人としての思いと事業そのものの進展ぶりあるいは進展しない状況、そのはざまの中でついに飽和点に達してというような趣旨の御説明がございましたけれども、私としましては、基金の事業の方は三木さんなんかの呼びかけ、そしてまたその後の御尽力、そういったものが着実に効果あるいは成果に結びつきつつあるんじゃないのかなと。
長い目で中長期を考えましても、日本の免許の保有者人口もそろそろ飽和点に達しつつあります。また、道路等のインフラ状況も考えますと、これまでのような右肩上がりの需要の増加は見込めない、そういう意味では大きな転換点に来ているのではないかという気がするわけでございます。
そういう面でかなり車庫のことについて将来を見通したあらゆる総合的な対策をしていかないと、自動車の場合はある飽和点を過ぎるともう全然機能しなくなっちゃうわけでありますので、その辺のところ、車庫の関係、午前中もちょっと出ましたが、ちょっと視点が違うのでありますけれども、十分これからの車社会、モータリゼーションの進展に対応できるようなそういう見直しであるかどうか、もう一度見解をお示しください。
それでもう飽和点に達してどうしようもなくなって、だれかがしゃべり出して、ひどい、ひどいと。振り返ることはしないで、あれこれ先のことを話すという一つの傾向もあると思うんですね。 そういう中で、今お話もあったようですし、先生の御答弁を聞きましたけれども、私は、東京の臨海副都心の開発計画というのは、結論から言うと全く無謀だと思うのです。
それから、通産がこの間三月二十八日に私の方へ出したいわゆる炉頂部の飽和点、一部一致したという、これに伴うデータがあるのですが、その二枚を重ねてみたのですね。これは①、②というのは、①はいわゆる計算コードの方、MARVELですか、それから②は通産が出した数値ですね。これを重ねるとこういう差がちょっと出てくるのですね。
そういうふうに考えますと、生活に必要なエネルギーの量というのはもう飽和点に達しつつあるのではないか。エネルギー消費を増大しないようなライフスタイルへ緩やかに転換していくということが必要なのではないかと考えられます。
ところが、プロペラ機は生産されておりませんから、今は最小の小型ジェット機B737を就航させているのですが、もうこの飛行場は飽和点に達しているのですね。発着陸が一日四十五回が目いっぱいのところ、四十三回ぐらいに今なっているわけです。それから、既に二回ぐらい着陸のときにオーバーランをしているというようなこともあるわけです。
○政府委員(田中宏尚君) ただいまも先生からお話しありましたように、食糧消費の全体の水準がほぼ飽和点に達しておるということのほかに、畜産物に比べての割高感でございますとか、あるいは調理の問題でございますとか、あるいはにおいの問題でございますとか、いろんな問題が複合しているわけでございますけれども、この中で一つは生産者段階でのコストダウンの努力が外国との関係からいいましても今まで以上に厳しいことが求められておりますし
○井上(泉)委員 訪問販売というのを、この法案を審議するに当たって私も若干勉強させていただいたわけですが、三兆円に近い取扱額、それから百万人を超えるこれに関与する人たち、そういうようなものを見た場合に、訪問販売業あるいは通信販売業というものが我が国の流通経済の中で、これは将来ますます伸びる方向にあるのか、もう現在が飽和点であるのか、あるいはこういう傾向というものは好ましいことであるのかないのか、その
ところが、だんだん経済成長が進んでまいりますというと、すべての現象がそうでございますように、成長曲線というものは初め急速に増加いたしまして、それからやがてだんだん飽和していくものでございますが、その飽和点がだんだん出てまいりまして、いわゆる下方修正というものを毎年繰り返してなされるようになってまいりました。
そういったような点で、住宅だとかあるいは社会資本の中の下水道だとか緑地、公園だとかいうもの、そういう基礎的なものについては非常に乏しいわけでございますけれども、一般消費物資はもう飽和点じゃないかということ、しかも欧米人のような合理的な生活をいたしませんから、衣類にしても夏服あり、合い服を持ち、冬服を持つ。和服を持つ、洋服を持つと、こういうことですね。
現在既に道路拡張による自動車輸送が飽和点、限界点に達しつつあるのではないかと私は見ております。自動車輸送は公害の激発などの外部不経済を巻き起こし、エネルギー消費問題についても、あるいは用地問題についても大変効率性が悪いわけであります。そういう意味からいいましても自動車輸送は限界がある。
もう司法書士なり土地家屋調査士なりというものは、大体数が今の日本の現状からいって、そんなにふえてもみんなが仕事がなくなっちゃう、今程度のところがもう飽和点だと言えば話は別ですね。しかしながら、これもこの間の資料を正確にきょうももらいましたけれども、十年前と比べてもかなり件数はふえている。
例外はこの時期に登場した計算機関係の技術、マイクロエレクトロニクスの技術でありますが、これを例外といたしますと、他の二十世紀型の技術はその飽和点に達したというふうに考えます。
まさにそれと合わせまして、いわば高度成長から低成長に移りました段階で、言うならば所得がある水準に達して物が飽和点になっているというような意見もございます。私はこの説にはくみしない立場をとっておるわけでございますが、いずれにいたしましても、所得の伸びの弱さ、それを反映した購買力の伸びの弱さは御指摘のとおりございます。